東京高等裁判所 昭和28年(う)4137号 判決 1954年5月31日
控訴人 被告人 中野久
弁護人 大石力
検察官 金子満造
主文
本件控訴はこれを棄却する。
当審訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は弁護人大石力作成名義の控訴趣意書のとおりであるから、これを引用し、次のとおり判断する。
論旨第一、
道路交通取締法施行令附則第四項によつて適用される道路交通取締令第二六条は車馬又は軌道車は、見透しのきかない交さ点若しくは坂の頂上附近、曲角、横断歩道又は雑踏の場所を通行するときは、警音器を鳴らし又は掛声その他の合図をして徐行しなければならない。というのであるが、ここにいう曲角という文字には見透しのきかないという文言はかからないのである。即ち見透しのきかないという文言は交さ点と坂の頂上附近とにのみかかるものであると解するのを右法文の文理解釈上相当とする。のみならず曲角とは普通道路が直角或はこれに近い急角度乃至くの字形に曲る場所をいうものであつて、かかる個所は見透しのきくきかないには関係なく(或程度見透しのきく田畑の中の道路でも直角或はこれに近い急角度乃至くの字形に曲つている箇所は曲角という。)徐行することが交通安全上要請されるのである。従つて原判決の如く曲角に見透しのきかないがかかるものとは解すべきものではない。而して原審が取り調べた証拠によれば、本件現場道路は直角或はこれに近い急角度乃至くの字形に曲つてはおらず、或る程度の見透しはききながらゆるやかに彎曲且つ蛇行している箇所と認められるので、右第二六条にいう曲角とは認め難く、寧ろ同令第二七条にいう屈曲の場所と認めるのを相当とする。しからば原判決は法令の解釈を誤り事実を誤認したものというべきである。
しかし被告人が本件現場を時速三七、三キロ位で貨物自動車を運転通行していたものであることは原判決引用の鴨川寿作成の鑑定書の記載によつて明瞭に認めうるところであり、所謂自動車の徐行とは如何なる程度の速度即ち時速何キロ以下をいうのか法令には格別これを定めていないのであるから社会通念によつてこれを決するより外ないのであるが、通常貨物自動車の徐行とはその制限時速(昼間の)四〇キロの二分の一(二〇キロ)以下たるべきものと解するを相当とする。(当審証人原文兵衛の公判供述もこの見解に照応する。)従つて被告人が本件現場を所謂徐行しなかつたものであることは明らかである。故に原審認定に右の如き事実の誤認と適用法令の一部に誤があつても結局道路交通取締令第五七条第二号によつて処断すべきものであることには何等かわりないのであるから、右の誤認は格別判決に影響を及ぼすものと認められない。畢竟論旨は理由なきに帰する。
(その他の判決理由は省略する。)
(裁判長判事 山田要治 判事 石井麻佐雄 判事 石井文治)
控訴趣意
原判決は判決に影響を及ぼすべき事実の誤認があり又その理由にくいちがいがある。
第一、原判決理由に「被告人は云々静岡市丸子六四七九番地地先の見透しのきかない曲角を徐行しないで通行したものである」と認定しているが、その証拠の標目に列記した何れの証拠によるも見透しのきかない曲角と認定すべきものがない。即ち、
(1) 原審検証調書によるも現場附近には何等の道路標識の存在しないことを明にし又被告人が相手乗用車の疾走を認めた位置とその相手乗用車の疾走位置迄の「見透し距離は三十米位であつて」とあつて少くとも三十米位見透し得るカーブの道路であることは明である。それ以上の遠距離が見透し得る道路に比較しては見透しが悪いということは云い得るが、旧道路交通取締令に所謂「見透しのきかない曲角」に該当しない。
(2) 原審証人甲賀恭一郎(巡査部長)の証言に依れば検察官の問に対し十五粁位で通行するのが安全だと思いますと述べ又道路交通取締令第二十六条に違反であると考えますと述べているがこれは単に巡査の意見に過ぎないのであつて問題は客観的に現場が速度制限の取締の対象となつている道路であるか否かである。同証人は客観的事実に関し左の通り証言している。弁護人問 本件現場を進行する自動車の制限表示があるのか 答、制限はない処であります 弁護人問 普通貨物自動車は時速四十粁以下であればこの現場では違反とならないのか 答、違反になりません。即ち現場は旧道路交通取締令第二十六条に該当しない場所であることが明らかに判断し得る。現に現場は国道東海道で西より東より同所を疾走している自動車は実に頻繁を極めているが(原審鑑定人小池武夫鑑定書道路状況の説明援用)特に毫も速度制限につき取締の対象となつていない。同所に事故の例あつたとしてもそれは何万台の内の一例に過ぎないのであつて他の何れの場所とも特異なものではない。
(3) 原審証人田辺希也(巡査)の証言に依れば 弁護人問 本件現場道路は制限違反の規定がない処か、答、規定がない道路であるので四十粁以下でなら通行しても良い訳であります。とある。即ち本取締令を適用すべき場所でないことを明らかにしている。
(4) 原審証人鄭在俊の証言に依れば、弁護人問 証人はトラックより遅れてブレーキをかけたのか、答、私はトラックのブレーキの音にびつくりしてブレーキをふんだのであります、裁判官問 証人の車はブレーキをかけてどの位走つて停車したか、答 四米位走つて衝突して停車しました、問 証人はどの位の距離でトラックを発見したのか、答 前方十五米位の地点に発見したのであります、問 ブレーキをかける措置が余り遅いがどうか、答 十五米前後で発見したがトラックが早すぎたのであります、
とある。
原審検証調書に依て明らかな如く被告人が後に接触した証人鄭在俊の運転する相手乗用車を前方三十米位の位置において認め制動に着手し約四米進んだ時にはブレーキ効果が発生していたに拘らず鄭在俊は十五米に接近して漸く被告人の車を認め而も被告人の車のブレーキの音を間近に聴いてびつくりしてブレーキを掛けその時は既に衝突地点へ四米という時で衝突して停車したというのが右証言の趣旨である。若し夫れ鄭在俊が前方の注意を怠らず被告人と同様に三十米位前方の位置で被告人を認めて制動に着手するか、遅くとも鄭在俊が十五米前方に被告人の車を認めた時直に制動に着手したならば、被告人の車は既に制動の効果生じて接触現場に臨んだ時は停車若くは当に停車せんとして僅かに動いていた時と経験上考察し得る状態であつたから、両車の接触は完全に防止することを得たと考察し得る。
要するにこの証言によるも両車の接触事故の原因は鄭在俊の前方注意義務を怠つて被告人の車を発見した時期が遅れ及その発見後制動処置に着手する時機を失したるに因るもので客観的に見透しのきかない曲角であつた為ではないと判断し得るのである。
(5) 原審鑑定人鴨川寿の鑑定書には、現場地点を通過する際の許容速度について理論的な許容値は39kmであるが実際には35km程度が許される最高速度と考えられるとあり又衝突原因について、(1) 被告人並びに乗用車の運転者共にもう少し徐行す可きであつた(2) 乗用車の運転者は注意力をかく漫然たる運転をした、被告人はもう少し道路中央部左側を通行す可きであつた、とある。これは両車衝突の結果から原因を探究して精細に地勢を按じて考慮した科学的な結論であつて貴重なものであるが、現場を旧道路交通取締令第二十六条に所謂見透しのきかない曲角なりと断じ被告人を故意犯たる同条違反であると断ずる資料とはなり得ない。
原審鑑定人小池武夫の鑑定書には道路状況及び安全速度として、左側通行しているときは前方約四〇米程度の見通しのきくようになるが右側通行すれば前方の見通しは約三〇米程度で自動車が道路を通行する場合カーブに対する安全速度は云々トヨダFX型の新車を例にとれば(本件の場合)云々毎時三十五粁のときは云々前方より走つて来る車輛も同一速度にて接近するものとすれば、二六、四六米までは衝突することになる。一件記録により明な如く本件の場合は被告人の運転した自動車はトヨダFX型新車で且空車であり相手自動車はキャデラック新車であつて何れも完全な性能を有し最良の条件に在つたのであるから鄭在俊が被告人と殆んど同時に被告人の車を発見し直に制動処置をとれば両車の衝突は未然に完全に回避し得たことを首肯することができる。同小池武夫の鑑定書の結論として、乗用自動車は云々前方カーブより貨物自動車が進行して来るのを認めたがまだ距離が相当(約三一米程度)離れており貨用自動車が緊急制動を始めたため前方にて停止出来るものと誤推察をしたため緊急制動操作をせず普通制動にて進行したが道路左側に溝及溝の取入口があつたため前輪が溝の一部に入つてショックにより運転者は危険を感じ無意識の動作により自然にハンドルを右に切つたが貨物自動車が目前にせまつたため急に(意識的)ハンドルを左に切り替えたが及ばず衝突したものと思われるとある。右小池鑑定人も現場の地勢を精細に調査し衝突の結果からその原因を推究した意見であつて鴨川鑑定人の場合と同様民事上の過失責任の存否判定の資料にはなるが、被告人を故意犯たる旧取締令に所謂見透しのきかない曲角を除行しなかつた違反に問う証拠にはならない。然るに原判決が右証拠により現場を見透しのきかない曲角と認定し被告人の犯意を認め徐行しなかつた違反ありと断じたのは当に判決に影響を及ぼすべき事実誤認ありと謂わなければならぬ。若し夫れ該現場が旧道路交通取締令第二十六条に該当する場所とせば毎日千数百件の違反事故を摘発しなければならぬであろう。然し未だ曽て同所が右法条に触れる場所であるとして摘発起訴された者は本件被告人の外にはない。鄭在俊も起訴されない。
(その他の控訴趣意は省略する。)